アメリカ館の屋根は、内部から空気圧を加えて浮び上がらせたものです。
空気を圧縮材、膜面を引張材として考えられた構造物で、軽量でしかも大スパンの空間を得られるのが特長です。
ロープと膜のたくみな組合せにより1本の支柱もなく、キャンバスを透過した自然光線は、光をコントロールした新しい空間の可能性について提示しています。
設計陣が持ち込んだものを、実際に縫い上げるのは薮野たち工場の面々である。薮野は昭和35年(1960)に定期採用の第1期生として入社した工業高校出の技術屋だった。それまでは主として自動車内装の仕事を担当してきたが、その年27歳だった薮野が、突然万博事業部の製造課長に抜擢され、未経験の縫製現場の責任者になる。しかもその量は、それまでの太陽工業が体験したことのない延べ20万平方mを縫製する特大の作業現場であった。
難しいのは富士グループパビリオンばかりではない。アメリカ館の要求は“1万平方mの1枚”ものの巨大キャンバスだった。
期せずして「それは不可能だ。5分割でいこう」の声もあったが、最高責任者の博正は「施主の要求に応えよう」と決断、薮野に未知への挑戦を命じるのだ。
「高校に膜面科などあるはずがなく、全くの素人。しかもこれだけ高度なものになると縫製のための装置や工具さえない。だから自走ミシン他、工具や機械、装置から自分たちで考え、設計し、作るところから始めなければならなかった。すでに結婚していたが、この1年間はついに一度も帰宅せず、毎日の睡眠は全メンバーが3〜4時間だった。1万平方mの膜を畳むに要した日数は丸3日。誰かが、弁当箱の中で風呂敷を畳むようだと言った言葉が今も印象に残っている。」(薮野)
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