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EXPO'70
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富士グループパビリオン設計に秘められた物語EXPO'70
富士グループパビリオンの特長
直径4m長さ78mのエアビームが16本アーチ状に立ち並び、各エアビームは4m間隔で、横ベルトによって相互に繋結されています。エアビームはビニロン・キャンバス2枚の張合わせで破断強度は抜群。その上、多段式ターボブロアの常設で、台風などの外力に対応して可変できる強度をもっています。
富士グループパビリオン外観 建築設計 村田豊建築設計事務所 大成建設株式会社
構造設計 川口 衛構造設計事務所
建築施工元請 大成建設株式会社
規模床面積 円形(直径=50m)約2,000平方m
長さ 64m
50m
高さ 31m
構造形式 二重空気膜(管圧)構造

カーデザイナー逆転の発想

わが国の草分けカーデザイナーであった沖が太陽工業に入社したのは、偶然の出会いからだった。
東洋工業で沖の後輩だった二人が太陽工業に転職しており、時に個人的に彼らの相談にのっていた。その関係で太陽工業の枚方工場を訪問した沖は、後輩に勧められるまま、本社で当時社長の能村龍太郎と懇談する。龍太郎は車のデザインについて聞きたがり、沖は、太陽工業が関わっている日本万国博に興味があった。
昭和42年(1967)暮れのことだった。ともに相手の聞きたいことは十分に聞き取ったのだが、「万国博に非常に興味があった」という沖の情熱が龍太郎に伝わった。
そこで、「そんなに万国博に興味があるのならうちに来ませんか」と誘いをかける。そして一年後の昭和43年(1968)11月、沖は万国博の魅力にひかれ太陽工業に転じるのである。
すでにその頃、膜構造を得意とする建築家村田豊の設計する富士グループパビリオンのデザインは出来上がり、太陽工業も工事グループの一員としてそこに参画していた。だが幌馬車のような、建物としてはまことに奇妙なデザインである。当時の建築業界にはコンピューターは導入されておらず、その形状を設計図面に落とすことは誰にもできなかった。
 村田を中心に基本設計を作るための最後のミーティングが東京であり、入社1ヵ月目の沖もこれに参加した。当時このチームは、「ここで結論が出なければ設計変更止むなし」という追い込まれた状態にあった。
ところが沖はその席上、「出来ます。1週間で模型まで作って持参します」と答えてしまったのだ。
「車のデザインをしてきた自分のやり方でやれば、決して不可能ではない。あの複雑な曲線を“数学”的な計算ではとても設計図には落とせないが、車のデザインでやってきた“図学”から入れば出来る」と直感したのだ。
 しかし、ことは思ったほど簡単には運ばなかった。「ホテルの机に向かったまま、5日間は一度もベッドに入らなかった。不眠不休で考えたが、どうしても妙案が思い付かない。大変なことになったと、不安が頂点に達した6日目の朝、突如閃くものがあり、一気に図面に落とした。ぎりぎりで何とか仕上げ、皆に協力してもらい、ようやく最終日のギリギリに模型をミーティング会場に持ち込んだ」のだ。
 それが村田の満足を得るところとなり、最終的に沖の案でゴーサインが出て、そのまま“太陽工業の沖”が、その担当者になるのである。
 

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